147-参-国民生活・経済に関する…-6号 平成12年04月19日

平成十二年四月十九日(水曜日)
   午後二時開会
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   委員の異動
 四月五日
    辞任         補欠選任
     入澤  肇君     戸田 邦司君
 四月十九日
    辞任         補欠選任
     山本  保君     益田 洋介君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         久保  亘君
    理 事
                中原  爽君
                服部三男雄君
                海野  徹君
                沢 たまき君
                畑野 君枝君
               日下部禧代子君
                松岡滿壽男君
    委 員
                斉藤 滋宣君
                田中 直紀君
                長谷川道郎君
                日出 英輔君
                真鍋 賢二君
                松村 龍二君
                吉村剛太郎君
                勝木 健司君
                谷林 正昭君
                堀  利和君
                但馬 久美君
                益田 洋介君
                西山登紀子君
                大渕 絹子君
                戸田 邦司君
   事務局側
       第二特別調査室
       長        白石 勝美君
   参考人
       中央大学法学部
       教授       広岡 守穂君
       株式会社ポピン
       ズコーポレーシ
       ョン代表取締役  中村 紀子君
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  本日の会議に付した案件
○理事選任の件
○国民生活・経済に関する調査
 (「少子化への対応と生涯能力発揮社会の形成
 に関する件」のうち、育児支援、育児の経済的
 負担軽減の在り方等について)

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○会長(久保亘君) 国民生活・経済に関する調査を議題とし、少子化への対応と生涯能力発揮社会の形成に関する件のうち、育児支援、育児の経済的負担軽減の在り方等について参考人から意見を聴取いたします。
 本日は、お手元に配付の参考人名簿のとおり、中央大学法学部教授広岡守穂君及び株式会社ポピンズコーポレーション代表取締役中村紀子君に御出席いただき、御意見を承ることといたします。
 この際、広岡参考人及び中村参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 両参考人におかれましては、御多忙のところ本調査会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。
 本日は、本調査会が現在調査を進めております少子化への対応と生涯能力発揮社会の形成に関する件のうち、育児支援、育児の経済的負担軽減の在り方等について忌憚のない御意見をお聞かせいただき、調査の参考にさせていただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、まず広岡参考人、中村参考人の順にお一人三十分程度で御意見をお述べいただきました後、九十分程度各委員からの質疑にお答えいただく方法で進めてまいりたいと存じます。
 質疑につきましては、あらかじめ質疑者を定めず、自由に質疑を行っていただきたいと存じます。質疑を希望される方は、挙手の上、会長の指名を待って質疑を行うようお願いいたします。
 また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に行っていただくようよろしくお願いいたします。
 なお、参考人からの意見陳述、各委員からの質疑及びこれに対する答弁とも着席のままで結構でございます。
 それでは、広岡参考人からお願いいたします。

○参考人(広岡守穂君) 広岡守穂と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
 きょう、私の意見を徴する機会をお与えくださいまして、本当にありがたく思っております。与えられたテーマにつきまして、私なりに意見を申し上げます。
 これからの時代は、私は子供を預けて育てる時代ではないかというふうに考えております。預けて育てるといいましても、何か保育所だのほかの人だのにぽんと預けてしまって、親は夜帰ってくるときに子供を引き取るだけと、そういうことを考えておるのではありません。いろいろな大人に子供が触れるあるいは友達に触れるという、そういう機会をたくさんつくって、そしてその中で子供がすくすくと育っていくという、そういうことを考えているわけでございます。親自身が伸び伸びと自己実現を果たしていくと申しますか、生きていくというためにも、また子供がすくすく育っていくためにも、私は子供を預けて育てる時代ではないかなというふうに思うわけであります。
 幾つかの経験からそういうことを考えるに至った根拠といいますか、申し上げたいと思うんですが、ついこの間も新聞にこんなことが出ておりました。
 デパートで食事をしておったら、隣の小さなお子さんがうっかりしてコップをひっくり返して水をこぼされた。すると、その水がそでにひっかかったんだそうであります。それを見てお母さんがとっさに、あら僕が悪いんじゃないよねというふうに言ったというのであります。
 考えて見ますると、こういう場合にはお母さんが厳しく子供に、まあ何てことをするのと言ってしかって、それでそのときに、水をかけられた方のおじさんなりおばさんなりが、僕が悪いんじゃないもんね、僕が不注意なんじゃないんだもんねと、こういうのが社会全体で子供が育てられるときの一つのしつけであろうかと思うのですけれども、おじさん、おばさんに、僕が悪いんではないんだよねという声をかける機会をふさいでしまって、そして子供が社会の中で自分は受け入れられて育つんだという安心感を得るということを何となくふさいでしまっているというのが現状の子育てにしばしば見られることではないかと思います。
 ちょっと極端なケースでありますが、私の経験からしましても、子供が一人目、二人目、三人目くらいまでは、どうも親は自分の子供しか見えないという傾向が強いと思います。
 私は、実は子供が五人おるのでありますけれども、運動会へ行きましても、文化祭へ行きましても、お遊戯会に行きましても、いつも自分の子供しか見ていないという感じでありました。それが、五人目の子供が中学校の一年生のときの運動会へ行きまして、それでいつその子が駆けっこで走ったのか気がつきませんでした。気がつかなくて初めて、ああ自分もちゃんとした親になったなという感じがしたのであります。
 子供が舞台のそでで踊っていると、それだけで、何でうちの子は端っこなんですかというふうにしてかみつく親が少なくありません時代ですし、真ん中で踊っている子に、君はよかったねと言って励ましてあげられるような、そういう親に親自身もまた育っていかなければいけない時代であります。かといって、こういうことを申すと、いつも最近の若いお母さんやお父さんはおかしいというふうな話になりがちなのでありますけれども、私はそうは思っておりません。ここが非常に大事なところだと思います。
 私は、実は学生結婚をいたしました。学生結婚をして、そして間もなく長男が誕生したわけであります。私は、子供が生まれて、そして連れ合いが赤ん坊とずっと二十四時間一緒にいるのを見ておりまして、かわいい赤ちゃんと一緒におれるのだからこんなに幸せなことはないのだというくらいにしか最初は思っておりませんでした。しかし、一年置いて二人目の子供が生まれたあたりから連れ合いはしばしばこぼすようになったわけであります。ずっと子供と二十四時間一緒だ、そしてトイレへ行くときも、姿が見えなくなるとたちまち赤ん坊は泣き出すものだから扉をあけて用を足しているんだ、そういうことをしきりにこぼすようになったわけであります。
 こういうとき、父親といいますか、夫の方は、多くの男性がそうではないかと思うんですが、大変だろうなと思います。大変だろうなと思い、じゃ何をしようかというときに、それじゃ家族全体で今度の休みにファミリーレストランへでも行って食事をして、そして帰ってこよう、するといい気晴らしになるだろう、そしてそれからまた一生懸命子育てに励むことができるだろうというくらいに思っているわけであります。いわゆる家庭サービスの発想です。
 ところが、何年かたってその当時を振り返ったときに、あのころは楽しかったね、いつも家族で全体で行ってと申しましたら、連れ合いは大変憤慨したような顔をしまして、そうと言ったわけであります。あれがとても大変だったと彼女は言いました。何だかんだ言って、結局おしめをかえたりミルクを飲ませたりするのは私の役目だと。じゃどうすればよかったのと聞きまして、返ってきた答えにびっくり仰天いたしました。あなたが子供を預かってくれて、半日でも二時間でもいいから私を一人にしてほしかったと言うのであります。母性本能とか、それから子供と一緒にいて女性は幸せだ、お母さんは何も問題がないとかとしばしば我々は思うわけでありますが、いざ子供を育てているときの、ずっと二十四時間子供と一緒にいなければいけないというプレッシャーがいかに重いかというのをそろそろやはり気がついていかなければいけない時代だと思います。
 そして何よりも、昔と違いまして核家族です。家庭を持つと、結婚いたしますと、親とは別居して、そして郊外に移り住むといったような生活のスタイルでありますので、多くの、とりわけ出産直後の小さなお子さんを育てていらっしゃる若いお母さんたちが、今私が申し上げたような経験をし、そして子育てに大変つらい思いをされておるわけであります。
 もうちょっと経験を述べさせていただきます。
 やがて三人目の子供が生まれて一年ほどたってから、連れ合いはしばしば学校へ通ったり、それから司法試験の勉強を始めると言ったり、いろんなことにチャレンジをするようになりました。ことごとく挫折をするわけであります。全部三日坊主でした。あるとき英語会話の勉強をすると言って、五人目の子供が生まれたぐらいのときだったんですが、チャレンジをいたしまして、それで私はうっかりからかったわけでございます。また三日坊主が始まったぞ、司法試験も三日坊主だった、経理士も三日坊主だった、何でもかんでも三日坊主だった、今度も三日坊主だろうと。すると連れ合いはぼろぼろと涙を流しまして、その日は一言も口をきいてくれませんでした。
 そのときに痛切に感じたのでありますけれども、我々は、子育てをサポートするということだけが大切なのではない、子育て中の女性はこういうことをしていて将来私はどうなるんだろうかという不安を非常に深く持っておりますので、むしろその人の自分育てを支える、サポートするという発想が極めて重要なのだと思いました。
 個人的なことばっかり申し上げて本当に恐縮ですが、実は十年前に「男だって子育て」という本を書きまして、その後しばしば男女平等の集まりですとか、それから子育ての講座ですとかに呼ばれることがございます。そして、今私が申し上げたような経験を申し上げますと、時々涙ぐまれる方とか、それから深くうなずかれる方がたくさんいらっしゃるのであります。子育てを支援するということは、同時にその人の自分育てをサポートするということであらなければならないのではないかというふうに思うわけであります。
 したがいまして、例えば育児支援をする、あるいは育児の経済的負担軽減といったときに、子育てはとても大変なんだから、児童手当といいますか、それにかかわる費用を、直接その方たちにお金を出せばよいという考え方は、私はちょっと筋が違うのではないかと考えております。
 連れ合いが言うのでありますけれども、例えば幼稚園に子供が上がるとそういったお金をいただくわけでありますけれども、彼女はこう申しておりました。そういうお金をもらうよりも、物を書くことが好きだったものですから、例えば物を書くチャンスを与えられた方が自分にとってはどんなによかったかしれないということをしばしば申しております。自分育てを支えるという発想が子育て支援の中では不可欠であるということをここでは強調したいと思います。
 子育ての不安をいろいろと考えてみますと、やはりそういうことを考えますと、自分育て、自己実現でありまするけれども、自己実現を支えるという面では、何よりもかによりも大切なのは安心して働きながら子育てをすることができる。自己実現は多かれ少なかれ仕事を持つということと大きく深く絡んでおりますので、安心して働きながら子育てをすることをバックアップしていく、そういうシステムが大変重要であるというふうに思うわけであります。
 加えて、子供の数が減っておりますし、そもそも今の若いお父さん、お母さんたちが、兄弟がたくさんおりませんとか、小さな子に触れた経験がありませんので、上手に子育てができるかどうか大変強い不安を感じているのが実情であります。母親が負担を一人で背負い込んでいるとストレスが大変重くなり、とりわけそれをよくあらわしておりますのが児童虐待であります。
 児童虐待、よく新聞ざたなんかにもなりますけれども、若い御両親の場合が圧倒的に多い。そして、我々、児童虐待なんというのを聞くと、最近のお母さんは子供のことをろくに見なくなったからなんというふうに短絡的な発想をしがちなんでありますけれども、児童虐待に傾きがちな方は実は専業で子育てに専念されている方の方が多いというふうに伺っております。連れ合いもまた、児童虐待などがニュースになるごとに、そういえば子育て中に私もそれにすれすれのような経験があったというふうに申します。このあたりのところをよく考えておく必要があるのではないかと思います。
 子供は小さいときにお父さん、お母さんから離されますとよく寂しいというようなことを申しまして、そして子供のためを思うと少なくとも三歳まではお母さんが子供と一緒にいるのが大事だなんと申しますけれども、何でもかんでも子供が寂しかったら、それじゃ寂しい思いをさせなければよいというものではございません。やはり子供には試練が必要であります。安定した人間関係の中で祝福されて育つとともに、同時に彼は寂しさを我慢したり、欲しいものを我慢したりする試練が必要であります。
 そして、そういう面で考えますと、こういうことをしてはだめだとか、ちょっと我慢をしなさいとかいう試練を与えるのは一体だれなのか。今は親だけではなくて、むしろ保育所の保育士さんとか幼稚園の先生とか地域の方とか、あるいはベビーシッターの方とか、そういう方が小さな子供さんのしつけに御両親のしつけをさらにサポートする形でかかわっていき、かつて日本の地域が持っていたような大勢の大人が子供さんの育つのを見ていくという、そういう役目を新しい形で再建していく必要があるのではないでしょうか。
 加えて、子供を囲む社会環境がやはり大変大きな不安を呼び起こす原因にもなっております。少年犯罪が多発したり、いわゆる切れる現象ですとか家庭内暴力ですとかいろんな問題がございます。そういう面でいうと、教育をきちっと整備していくということが子育てを支援していくことのやはり大事な柱になるということも忘れてはならないというふうに思うわけであります。
 少し今申しましたことをもうちょっと別の角度から整理をいたしますと、こういうふうになるのではないかと思います。
 現代人は大変に自己実現的になっております。極めて自己実現的になっております。職業や社会活動、職業的活動ばかりではないと思いますけれども、ボランティアですとかさまざまな社会活動を通じて自分の人生の充実を追求していくというのが、これは男であれ女であれかかわりなく現代人の極めて重要な基本的な価値観になっております。そして、我々は、その自己実現の欲求というものを常に健全な状態に保ち、それを刺激し、またそれを満足させておくような社会システムを必要としておると思います。
 かつては、第二次大戦後あるいは明治維新以後の日本の社会は貧しかったですから、したがって物質的欠乏から解放される豊かな社会をこしらえるという目的がございました。今我々は豊かな社会をつくることに成功いたしました、とりあえずは成功いたしました。このとき、なお一層の活力ある産業の活動をつくり出していく勤勉さですとか創造力ですとかの源泉になりまするものは、一人一人の個人が心の中に持っておる自己実現の欲求ではないでしょうか。
 そして、そういう意味で申しますと、もっと豊かになりたいとか、ぜいたくをしたいとかといったようなそういう欲求に個人の行動が支えられている時代ではなく、真に豊かな社会といいますものは、社会の発展をもたらす原動力がむしろ自己実現をしていこうとするひたむきな努力に、そこに求められるようなそういう時代であろうかと思います。
 そして、そう考えますと、我々の今の日本の社会が一つ持っている大きな欠陥は、女性の自己実現に対して社会全体が比較的冷淡だということであります。
 適正な、何と申しますか、受験勉強がああいうゆがんだ競争ではなくて、人々が伸び伸びと自己実現的な価値を追求していく、その自由な努力が社会の発展につながっていく、そういう社会システムを考えまするときに、我々は男性も女性も性にかかわりなく、一人一人が自分の自己実現の道を追求していくチャンスを与えられるようなそういう社会をつくっていく責務があると思います。すなわち、ジェンダーフリーの社会をつくる責務があると考えるわけであります。
 かと申しまして、自己実現の裏には功利主義と申しますか、ベンサムが申しましたような、人間は快楽を最大にし苦痛を最小にするようにして行動するといった側面があります。現代人はそういう面で、自己実現的になればなるほどまた裏側では功利主義的になっております。それはひいては、我が子さえよければ、自分さえよければ、自分の子供しか見えない、自分しかわからないといった面になりがちであり、何か問題が起こると学校の責任にしたり、社会全体の責任にしたり、自分の責任を省みないという傾向がこれまた裏側につきまとうわけでございます。
 私は、正義や公正やリーダーシップを重んじる道徳観念をきちっと内面化していくということが今ほど重要な時代はないと思います。
 そういう面でいいますと、若いお父さんやお母さんだけが子供のしつけにかかわっていくというあり方にはやはり限界があるのでありまして、地域やあるいは先ほど申しました保育士さんとか幼稚園の先生方とかベビーシッターの方とか、そういった方が、子供を社会全体の宝としてとらえ、お互いに手を取り合って子供の教育にかかわっていく、子供を育てる、子育てにかかわっていくという、そういう意味で子供を預けて育てる社会的合意というものをつくっていく必要があるのではないかなというふうに思っております。
 この中で特に強調したいのは、NPOですとかそういう新しい地域の動きでございます。地域の子育て力を回復していくというのが今ほど問われている時代はないのではないでしょうか。
 少子化を見てまいりますと、今地域の子供の数が、一小学校区当たりで考えてみますと、一九五五年には大人二千二百人で十五歳未満の子供は千百人でございました。大人二人に子供一人がおったのであります。今は、一九九五年、四十年後には大人四千三百人に子供八百二十人、五人に一人という状況になっております。本来ならば地域の子育て力が一層強くなってもよいと思われまするのに、にもかかわらず、むしろ地域は子供の成長に対してますます無関心になっているかのように感じるのであります。
 この場合に、我々が考えなければいけないのは、町内会ですとかそういう隣保組織的なものではなくて、例えば二十四時間の子供電話相談のNPOの活動が起こるですとか、女性問題で言えば民間のシェルターの活動が起こっていくとか、児童虐待防止のNPOの活動が起こるとか、そういった何と申しますか、新しい形態の地域活動が盛んになっていくことであろうかと思うわけであります。
 以上のことを考えてみますと、そういったことが可能であるためにも、つまり働く人々が地域でNPO的な活動に取り組むといったことが可能であるためにも、我々はやはり働き過ぎの社会を少し切りかえていく必要があるのではないかと思います。産業の活力というものは必要であります、不可欠だと思いますが、しかしその産業の活力は、男が家庭をほうりっ放しにして朝から晩まで会社で働き、その分女性が家庭の中にいて朝から晩までこれまた子供の面倒を見るといったようなものではないはずであります。
 労働時間が短くなり、男性も女性も自己実現的に働くことができ、そして地域でもまたもう一つの顔を持ち、さまざまなNPO活動に同時にかかわることができる。一人の人間が二足のわらじも三足のわらじも履くことができ、そして多くの大人がそのうちの一足のわらじを地域の子供たちにかかわるというところに持つことができる、そういう社会をつくっていかなければいけないと思います。育児支援と申しますと、私は結局こういったことに尽きるのではないかというふうに思うわけであります。
 三十分、せっかく時間を与えていただきましたのに、三十分では話し切れないと思いまして猛烈な駆け足で話をしましたらもう終わってしまいました。とりあえず一応このあたりのところで締めたいと思いますが、最後に一言だけ申し上げます。
 育児の経済的負担を軽減するということは、私は個々の家庭にお金を出すといったようなこととはちょっと筋が違うのではないかというのをもう一回強調しておきたいと思います。
 第二次世界大戦後、フランスで少子化が非常に甚だしくなったときに、フランス政府はたしかかなり大きな額のそういう手当を支給し、そしてそのことが女性の生き方を変えてしまった、大きな影響を与えてしまった。それで、さまざまな風刺の芝居だのそれから小説だのが書かれたやに伺っております。
 我々は女性も男性も自己実現的に生きる、そしてそれが二十一世紀の社会の活力の最大の源泉であるということ、このことを視野に置きまして、経済的負担の軽減というのは、むしろ、例えば地域の保育とかそれからあるいはベビーシッターとかあるいはNPO活動とか、そういったものに補助を出す方が正当な筋ではないかというふうに考えておる次第でございます。
 以上でございます。

○会長(久保亘君) ありがとうございました。
 次に、中村参考人にお願いいたします。